初めましてkumiと申します。
普段は看護師の仕事をメインに
給食不登校専門カウンセラーとして
活動させて頂いいております。
ここで少し私のこれまでの歩みをお話させていただきます。
転勤族で各地を転々とする生活
私は神奈川県在住で
普段は看護師兼機能訓練士として
通所介護施設で働いております。
家族は主人と私、双子男子の4人で暮らしです。
私達は元々転勤族でこれまで色々な所に
移り住んでおり結婚してから約8回程引っ越しを
くりかえして来ました。
子供が産まれる前は
転勤で色々な土地に行けるのが
楽しかったのですが
出産してからはとても大変でした。
転勤族で双子育児の大変さを痛感する日々
私達夫婦はある理由で
非常に子供が授かりにくい状況でしたが
奇跡的に一卵性双生児の
男の子を授かることができました。
本当なら幸せの絶頂のはずなのですが
初産での双子の子育ては
余りに過酷で孤独でしたので
子育てを楽しむ余裕は全くありませんでした。
日常生活の睡眠や食事、
外出などもままならず
半年くらいは全く外出も出来ずに
とても辛かったのを覚えています。
その後も転勤は続いており
知らない土地で友人も両親も主人も
日中はいない状況が続く中、
なんとか子供達のために
新しいコミュニティに慣れようと
頑張っていました。
大阪から福岡に転勤になった時は
すぐに私が働く事が出来なかったので
子供を保育園ではなく
幼稚園に入園する事になりました。
毎日毎日の送り向かいで私自身が
一緒に幼稚園に通っているかのような感覚でした。
自己犠牲と気づけない
いつしか、いい母親、いい妻でいようと
自分なりに頑張っていましたが役割を果たす為に
知らず知らずのうちに自分の事を後回しにして
自己犠牲的な生き方になっていきました。
ある時「なんだか呼吸がしにくいな」と
思い「少し寒いかも、軽い風邪かな」と考え
て何となく熱を測ってみると
38度も発熱があり、
みるみるうちに40度位まで
上昇してしまいました。
自分でもビックリしてしまい
次に背中とお腹に急に
気絶しそうになる位の激痛が走りました。
一体自分に何が起こっているのかわからず
部屋の隅でのたうち回っていると
3歳の息子達が私の姿を見てビックリして
私のお腹や背中などに無数の絆創膏を
貼ってくれました(泣)
すぐに主人に電話しましたが
その日はたまたま出張で東京だったので
直ぐに帰ってきて貰う事はできません。
もちろん両親も友人もいません。
そんな状況なので救急車をよんだり
誰でもいいから助けを求めたり
したら良かったのに、、、
夜の遅い時間帯だった事もあり
「迷惑だから」とか「時間が遅いから」などと
助けを求める事が出来なかったのです。
それから私は取り敢えず痛み止めを飲み
少しだけ痛みが和らいでいる間に子供達をつれて
タクシーで夜間救急に飛び込みました。
そこで何故か肺のレントゲンは撮影せず
腎臓かな?お腹かな?などと当直の先生が
エコー検査をしてくれましたが
異常がみつかりません。
私も痛みを必死に我慢しながら
正常に考えられない状況でした。
結局抗生剤を点滴して「入院しましょう」と
言われましたが、子供も一緒に入院する事が
出来ないといわれ、すぐに預ける人がみつからず
一旦また子供を連れて自宅に戻りました。
夜間に痛みが再度襲いかかり激痛が走り
ましたが何とか次の朝まで
耐えようとしていました。
「朝になったらファミサポさんに
電話して子供を預けてもう一度病院に
行こう」と心の中で自分に言い聞かせていました。
両親にも電話していましたが関西で遠方だった為
新幹線で次の日の朝になるまで助けて
もらう事は出来ません。
そして痛みに悶えながら耐えつづけ
ようやく朝になり子供をファミサポさんに
子供を預けやっとの事で入院する事ができました。
「助けて」と言えない、、、
でも今思えば、、、
「ここまで我慢する必要はなかったな」と
なんとも言えない気持ちになります、、、。
人に頼れず我慢をし過ぎてしまう所や
「もっと私が頑張らないと」という
自己犠牲的な考え方の結果
自分の肺が真っ白になり
重症の肺炎になっているにも関わらず
体に違和感は感じていたものの
ここまで症状が強くでるまで
自分の事に気づく事が出来なくなっている
私自身に愕然としてしました。
ここで初めて、、、
「私、変わらなければ!!」と思えたんです。
「自分の事をもっと大切にしてあげよう」と
考えました。
そして2週間程度入院し
周りにも助けて貰いながら肺炎も回復し
無事に退院する事が出来ました。
しかし転勤転々生活はまだまだ続きます。
様々な試練が私を磨く
福岡をへて滋賀から東京へ移り住み
神奈川県又でにたどりついたころ
子供は3校目の小学校に転校していました。
慣れない小学校での環境のなか
双子のお兄ちゃんの方が
なかなか食欲がわかず
給食がらたべられずにいました。
そしてある日、
クラスの担任の先生から
給食の完食指導を受けそれがトラウマ
転校先でのら慣れない環境のストレス、
私も仕事をし出していた事などが重なり
会食恐怖症という病気を発症してしまいました。
(現在は落ち着いています)
またその他にも、
定期検診で主人の大病がみつかり
早急に手術する事になったり、
小学校のPTAの仕事が入ってきたりと、
色々な事が重なりました。
その時の私は自分の事を変えようと
自分では意識していましたが
今ひとつ変わりきれていない状況でした。
しかし次から次へと色々な事がおこり
もはや立ち止まる事はできず
前を見て全力で自分の出来る事を
行動として全て動いていきました。
子供の症状が良くなる様に
私の仕事の量を減らし、
小学校にも一緒に登校し
皆んなと給食が食べれないなら私と一緒に
別室で食べられるように先生と交渉したり、
小児科の心理の先生に相談したり
スクールカウンセラーの先生に相談したり
など思いつく事をなんでもやろうと行動しました。
主人の手術の成功を1人で待合室でまち
入院生活を支えるべく自宅と病院の往復の毎日。
もちろん仕事も家事もしながらです。
それから他にも色々とありましたが
ひとつひとつ無我夢中で行動した結果、
今は子供の症状も落ち着きを取り戻して
子供は元気に学校へいける様になり、
給食も食べられるようになりました。
一方で主人の方も大病でしたが
早期発見だっので無事に手術を終え
退院でき、今も元気に働いています。
また主人自身が病気を経験する事で
以前より考え方に丸みがでて柔軟に
考えてくれるように変化しました。
自分の肺炎の入院
子供の会食恐怖症
主人の大病と手術
小学校のPTA活動
など、、、
ここでも「人に頼る」「助けを求める」
事が苦手でしたが、
職場にだけは事情を話し、
全面的にシフトなどを配慮して
貰う事が出来きとても
有り難かった事を覚えています。
ママの「心の余裕」が家族を光で包み込む
以前参加させて頂いた
某有名塾の保護者向けセミナーでO先生やM先生が
「本当の自立は人に助けてと言えるようになる事!!」と
お話しをされていました。
(間違ってたらすみません)
本当にそうだなと今は思えます。
私が「助けて」と言えないと
周りもどうしたらいいのか
分かるはずもないですよね。
私が自己犠牲的に動いてしまうと
子供達や家族も同じように動いて
しまうのかも、、、
と思うもうになりました。
特に家庭の中での母親の「心の余裕」は
とても重要だと思います。
子育てにとても影響が出てしまいます。
家族関係やパートナーシップが良ければ
子供にもいい影響が与えられます。
しかし
逆だと子供にも悪影響が出てしまうのでのです。
終わりに、、、、
まだ勉強中ではありますが
今の私のテーマは「食」と「パートナーシップ」です。
「食」に関しては
子どもの体調不良を切っ掛けに
「食」に向き合う姿勢を学びました。
ただ栄養を体の中に取り込めばいいと言う事
では無く、食べる時の「楽しさ」や「雰囲気」が
とても大切だと実感しています。
一方で
お母さんの「心の余裕」を大切にして
家族内のエネルギー循環を
より高めて行けたらいいなと思っています。
まだまだ勉強の身ですが他力もお借りしながら
それらを実現する事が出来るように
皆さまと一緒に頑張って行きたいなと
思っております。
そしてその先に私と同じようなお悩み方の
お役に少しでもたてたら嬉しいなと
思っております。
これからもどうぞよろしくお願いします。
最後まで読んで頂きありがとうございました。